すっぽんさんのBLOG

本の感想を中心にした、趣味のブログです。

奇跡を行わない神

 高校生の頃、仏教系の学校に通っていて、授業に数学や歴史、現文・・・等と並んで、「宗教」という科目がありました。先生の話は余り良く覚えていないのですが(ごめんなさい)、先生の話を余所に、授業の教科書を読んでいるのが好きでした。
 教科書の内容は、ブッダ(お釈迦様)の生涯を書いたもので、ブッダを歴史上の人物として、淡々と描いてありました。そこでのブッダは、これと言った奇跡を行うことも無く、悟りを開いた後は、町から町へと教えを広めていき、確か八十何歳かで亡くなります。私は何故か、自分でも不思議に思うくらい、その物語に魅力を感じていました。
 一番好きだった場面は死の直前の話で、亡くなろうとするブッダを見て弟子のアーナンダが泣くのですが、ブッダは、「泣くでないアーナンダよ」「私は秘密の奥義など持ってはいない」「自らを灯火として生きるのだ」と、語りかけます。この言葉、全く宗教らしからぬ言葉だと思いませんか?
 
そんな頃、家にあった梅原猛さんの本を、何の気なしに飛ばし飛ばし読んでいると、あるヨーロッパの仏教学者の話がありました。その学者が仏教に興味を持つようになったきっかけが、老齢となったブッダが布教のため、町へと向かっている中で弟子に水を求め、もう水は無いので町に着くまで待ってくださいと言われたという話を知った事だったそうです。「同じだ」と思いました。

 それまで知っていた宗教とは、神や、それに仕える者が奇跡を行って、だから立派だ、偉大なのだ、といった感じでしたが、授業の教科書に出てくるブッダはそれらとは全く違いました。
 ブッダに引き続き、私は、孔子や、遠藤周作の描くイエス・キリストに興味を持っていきました。彼らもまた、これと言った奇跡を起こしません。

 

 ところで、ブッダ孔子にはほとんど同じような逸話が残っています。彼らはある時、教えを乞う一人の者から死後の世界について聞かれます。普通、宗教と言えば、死後の世界について知る事は重要なことのように思えますが、彼らははっきりと答えることは無く、まるで一見すると、答えをはぐらかしているかのようにも思える返事をします。後に、死後の世界について気になる弟子が、再度、師匠に聞きました。これに対するブッダの答えは、「過去は捨てられた、未来はまだ来ない、今なすべき事をなせ。」であり、孔子の答えは、「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らんや」でした。

 ブッダは人々を悟りへと導かんと教えを説くのであり、孔子は道へと導かんと教えを説きます。その上で死後の世界について知る意味とは?それは、オカルトに興味を持つことと何が違うのでしょうか?奇跡を行う者が偉大で、立派なのであれば、ブッダ孔子より魔法使いのほうが立派なのか?

 

 もちろん世の中では、ブッダイエス・キリストの奇跡の話はたくさんあるでしょう。しかし私は、元々余り信心深くない事もあってなのか、そんな彼らよりも、奇跡を行わない、余計な物を剥ぎ取られた(この言い方は不謹慎かもしれませんが)、そのままの姿のブッダ孔子イエス・キリストに魅力を、畏敬の念を感じるのです。