「イエスの生涯」 遠藤周作 著
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奇跡を行わない神
幸いなるかな 心貧しき人 天国は彼らの者なればなり
幸いなるかな 泣く人 彼等は慰めらるべければなり
洗礼者ヨハネの後継者として、ユダヤ人の宗教的な救世主(メシア)として、ローマからの独立運動のリーダーとして、奇跡を起こす者として、人々はイエスの下に集まり、称えます。しかし、その期間は短く、イエスに身勝手な期待を寄せた人々は、彼が思っていたような人物ではなかったと落胆し、罵りながら去っていく。
イエスは人々に語りかけますが、誰からも理解されることはなく、それは12使徒と言われる弟子たちですら例外ではありません。
過越祭の日、イエスは十字架刑に処されることとなる。イエスを見捨て逃げ出した弟子たちは、刑に処されるイエスが、怒りの言葉を、呪いの言葉を述べるだろうと恐れます。また一方で、イエスが奇跡を起こすことを、神がイエスを救うことを期待します。しかしイエスは、彼らにとって意外なことに、ただ無力なまま死んでいく。
その中で弟子たちはようやく、イエスが人々に伝えようとしたことを、なぜ神がイエスを使わしたのかを理解し始める。
元来、ユダヤ人の民族的宗教であったユダヤ教、その預言者の一人イエス・キリストを神の子とするキリスト教、ムハンマドを最後にして最高の預言者とするイスラム教、この3つの宗教は同じ神を信仰する宗教ですが、その名前はよく耳にしながらも、多くの日本人にとっては距離を感じさせる宗教のように思えます。もちろんキリスト教に関しては日本でもそれなりの数の信者がいますし、クリスマスは祝いますし(なぜ?)、どこか魅力を感じてはいるのですが、その教義となると取っ付き難いというか、何か肌に合わないというか。
一神教の時点で、なぜ他の神は信じたらダメなの?と思いますし、三位一体も、神・イエス・精霊の三者が一つの存在であると言われましても、それはキリスト教徒以外の人からすれば、ただの辻褄合わせなのではないのかと。
しかし、遠藤周作の書くイエスの姿は、そんなキリスト教を遠くに感じている人にも親近感を感じさせ、読む人の心に響くものがあります。
イエスは、多くの病める者、悲しむ人、見捨てられた人に寄り添うのですが、遠藤周作は、『聖書のなかにはあまたイエスと見棄てられたこれらの人間との物語が出てくる。形式は二つあって、一つはイエスが彼等の病気を奇蹟によって治されたという所謂「奇蹟物語」であり、もう一つは奇蹟を行うというよりは彼等のみじめな苦しみを分ちあわれた「慰めの物語」である。』と述べます。そして、「慰めの物語」の方が「奇跡物語」よりも、リアリティを持って、イエスの姿を生き生きと描いていると述べます。遠藤周作は、この奇跡を行わない、無力なイエスの姿をことさら強調し、そこにイエスの魅力と本質があることを読者に訴えかけます。わたしは、その遠藤周作の主張に深く共感しました。
新約聖書には、「奇跡物語」を中心としたヨハネ福音書のようなものや、「慰めの物語」を中心とするマルコ福音書など複数の聖書が存在しますが、その内どの福音書も、イエスの十字架刑に処される場面においては、イエスを無力で無能な人として描いていると著者は言います。確かに、イエスが神の子ならば、いかようにも危険を回避できそうに思えます。
イエスの数々の奇跡を描いた福音書であっても、この受難の場面においては、イエスを無力で哀れな姿で描くのはなぜなのか。そして、イエスが人々に伝えようとしたこととは何であったのか。なぜ、そのような形で伝えなければならなかったのか―。是非ご一読願います。
イザヤ書 五十三章
その人には見るべき姿も、威厳も、慕うべき美しさも無かった。
侮られ、棄てられた。
その人は哀しみの人だった。病を知っていた。
忌み嫌われる者のように蔑まれた。
誰も彼を尊ばなかった。
まことその人は我々の病を負い
我々の哀しみを担った・・・