すっぽんさんのBLOG

本の感想を中心にした、趣味のブログです。

「ゾロアスター教」  青木健 著

 

 何か宗教色強めになってきた気がしますが、今回はゾロアスター教です。怪しい者ではございません。特に古代ペルシャで隆盛を誇った宗教で、現在でも10万人以上の信者はいるようです。

 

 信仰する神は「アフラ・マズダー」。教祖は「ザラスシュトラ」という紀元前12~9世紀頃の人物です。

 

教祖「ザラスシュトラ」はドイツ語読みで「ツァラトゥストラ」となり、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」はここから来ています。同名のリヒャルトシュトラウス交響詩ツァラトゥストラはかく語りき」(映画「2001年宇宙の旅」で効果的に使われました)はニーチェの同書を読んで書かれたもの。また、モーツァルトの歌劇「魔笛」に出てくる「ザラストロ」も同じくここから来ています。(ちなみに魔笛の主人公タミノは日本人という設定。)

それでは、ニーチェモーツァルトゾロアスター教の影響を受けていたのか?当時のヨーロッパで、ゾロアスター教の教義が知られていたのか?と言うと、全くそんなことは無く、ただ単に、異国の何か神秘的な存在、キリスト教とは違う、よく分かんないけど偉大な人物と思われていたようです。

 

 

 ゾロアスター教の教義の特徴として、一神教的性格、善悪二元論、終末思想があり、この独創的な教義は、キリスト教、仏教など、多くの宗教に影響を与えているようです。しかしながら、神アフラ・マズダーのみが信仰に値するとする一神教的な教えは、土着の神々を信仰していた当時の人々にとってなかなか受け入れがたいものであったらしく、教祖ザラスシュトラの死後、大幅に妥協、修正されます。終末思想については、北欧神話にも見られますから、元々アーリア人が持っていた考え方だったのでしょうか??ともかく、ゾロアスター教では、この世界は「善と悪」のどちらかに属し、同じようにすべてのものは「光と闇」、「生と死」のように二つに分けられます。この考え方によれば犬は善で、蛙は悪らしいです。ちょっと無理がある気もします。そして、やがて世界の終末の日が訪れ、善と悪の最終戦争の後、善が勝利するという筋書きになっています。

 

 

 ゾロアスター教という、歴史の本の中で小耳に挟んだことはあっても、謎の、なんとなく怪しい気もする宗教に興味を持ってこの本を読んでみましたが、世界史上初の倫理的宗教であり、重要な意義を持つ宗教であるようでした。また、ゾロアスター教を中心にオリエントの歴史や、民族について書かれており、さらなる興味をかき立てられ、続けて同著者の本を読んでみましたので、後日またそれらの本についても書きたいと思います。

 

 

「イエスの生涯」  遠藤周作 著

 

奇跡を行わない神

 

  幸いなるかな 心貧しき人  天国は彼らの者なればなり

  幸いなるかな 泣く人    彼等は慰めらるべければなり

 

 

 洗礼者ヨハネの後継者として、ユダヤ人の宗教的な救世主(メシア)として、ローマからの独立運動のリーダーとして、奇跡を起こす者として、人々はイエスの下に集まり、称えます。しかし、その期間は短く、イエスに身勝手な期待を寄せた人々は、彼が思っていたような人物ではなかったと落胆し、罵りながら去っていく。

エスは人々に語りかけますが、誰からも理解されることはなく、それは12使徒と言われる弟子たちですら例外ではありません。

過越祭の日、イエスは十字架刑に処されることとなる。イエスを見捨て逃げ出した弟子たちは、刑に処されるイエスが、怒りの言葉を、呪いの言葉を述べるだろうと恐れます。また一方で、イエスが奇跡を起こすことを、神がイエスを救うことを期待します。しかしイエスは、彼らにとって意外なことに、ただ無力なまま死んでいく。

その中で弟子たちはようやく、イエスが人々に伝えようとしたことを、なぜ神がイエスを使わしたのかを理解し始める。

 

 

 

 元来、ユダヤ人の民族的宗教であったユダヤ教、その預言者の一人イエス・キリストを神の子とするキリスト教ムハンマドを最後にして最高の預言者とするイスラム教、この3つの宗教は同じ神を信仰する宗教ですが、その名前はよく耳にしながらも、多くの日本人にとっては距離を感じさせる宗教のように思えます。もちろんキリスト教に関しては日本でもそれなりの数の信者がいますし、クリスマスは祝いますし(なぜ?)、どこか魅力を感じてはいるのですが、その教義となると取っ付き難いというか、何か肌に合わないというか。

 一神教の時点で、なぜ他の神は信じたらダメなの?と思いますし、三位一体も、神・イエス・精霊の三者が一つの存在であると言われましても、それはキリスト教徒以外の人からすれば、ただの辻褄合わせなのではないのかと。

 

しかし、遠藤周作の書くイエスの姿は、そんなキリスト教を遠くに感じている人にも親近感を感じさせ、読む人の心に響くものがあります。

 

エスは、多くの病める者、悲しむ人、見捨てられた人に寄り添うのですが、遠藤周作は、『聖書のなかにはあまたイエスと見棄てられたこれらの人間との物語が出てくる。形式は二つあって、一つはイエスが彼等の病気を奇蹟によって治されたという所謂「奇蹟物語」であり、もう一つは奇蹟を行うというよりは彼等のみじめな苦しみを分ちあわれた「慰めの物語」である。』と述べます。そして、「慰めの物語」の方が「奇跡物語」よりも、リアリティを持って、イエスの姿を生き生きと描いていると述べます。遠藤周作は、この奇跡を行わない、無力なイエスの姿をことさら強調し、そこにイエスの魅力と本質があることを読者に訴えかけます。わたしは、その遠藤周作の主張に深く共感しました。

 

 新約聖書には、「奇跡物語」を中心としたヨハネ福音書のようなものや、「慰めの物語」を中心とするマルコ福音書など複数の聖書が存在しますが、その内どの福音書も、イエスの十字架刑に処される場面においては、イエスを無力で無能な人として描いていると著者は言います。確かに、イエスが神の子ならば、いかようにも危険を回避できそうに思えます。

 イエスの数々の奇跡を描いた福音書であっても、この受難の場面においては、イエスを無力で哀れな姿で描くのはなぜなのか。そして、イエスが人々に伝えようとしたこととは何であったのか。なぜ、そのような形で伝えなければならなかったのか―。是非ご一読願います。

 

 

 

 

イザヤ書 五十三章

その人には見るべき姿も、威厳も、慕うべき美しさも無かった。

侮られ、棄てられた。

その人は哀しみの人だった。病を知っていた。

忌み嫌われる者のように蔑まれた。

誰も彼を尊ばなかった。

まことその人は我々の病を負い

我々の哀しみを担った・・・

 

 

奇跡を行わない神

 高校生の頃、仏教系の学校に通っていて、授業に数学や歴史、現文・・・等と並んで、「宗教」という科目がありました。先生の話は余り良く覚えていないのですが(ごめんなさい)、先生の話を余所に、授業の教科書を読んでいるのが好きでした。
 教科書の内容は、ブッダ(お釈迦様)の生涯を書いたもので、ブッダを歴史上の人物として、淡々と描いてありました。そこでのブッダは、これと言った奇跡を行うことも無く、悟りを開いた後は、町から町へと教えを広めていき、確か八十何歳かで亡くなります。私は何故か、自分でも不思議に思うくらい、その物語に魅力を感じていました。
 一番好きだった場面は死の直前の話で、亡くなろうとするブッダを見て弟子のアーナンダが泣くのですが、ブッダは、「泣くでないアーナンダよ」「私は秘密の奥義など持ってはいない」「自らを灯火として生きるのだ」と、語りかけます。この言葉、全く宗教らしからぬ言葉だと思いませんか?
 
そんな頃、家にあった梅原猛さんの本を、何の気なしに飛ばし飛ばし読んでいると、あるヨーロッパの仏教学者の話がありました。その学者が仏教に興味を持つようになったきっかけが、老齢となったブッダが布教のため、町へと向かっている中で弟子に水を求め、もう水は無いので町に着くまで待ってくださいと言われたという話を知った事だったそうです。「同じだ」と思いました。

 それまで知っていた宗教とは、神や、それに仕える者が奇跡を行って、だから立派だ、偉大なのだ、といった感じでしたが、授業の教科書に出てくるブッダはそれらとは全く違いました。
 ブッダに引き続き、私は、孔子や、遠藤周作の描くイエス・キリストに興味を持っていきました。彼らもまた、これと言った奇跡を起こしません。

 

 ところで、ブッダ孔子にはほとんど同じような逸話が残っています。彼らはある時、教えを乞う一人の者から死後の世界について聞かれます。普通、宗教と言えば、死後の世界について知る事は重要なことのように思えますが、彼らははっきりと答えることは無く、まるで一見すると、答えをはぐらかしているかのようにも思える返事をします。後に、死後の世界について気になる弟子が、再度、師匠に聞きました。これに対するブッダの答えは、「過去は捨てられた、未来はまだ来ない、今なすべき事をなせ。」であり、孔子の答えは、「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らんや」でした。

 ブッダは人々を悟りへと導かんと教えを説くのであり、孔子は道へと導かんと教えを説きます。その上で死後の世界について知る意味とは?それは、オカルトに興味を持つことと何が違うのでしょうか?奇跡を行う者が偉大で、立派なのであれば、ブッダ孔子より魔法使いのほうが立派なのか?

 

 もちろん世の中では、ブッダイエス・キリストの奇跡の話はたくさんあるでしょう。しかし私は、元々余り信心深くない事もあってなのか、そんな彼らよりも、奇跡を行わない、余計な物を剥ぎ取られた(この言い方は不謹慎かもしれませんが)、そのままの姿のブッダ孔子イエス・キリストに魅力を、畏敬の念を感じるのです。

 

 

「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」  管賀 江留郎 著

 

 

「多数派である凡人の能力には、そうでなければならない必然があるのだ。目の前の現実をありのままに受け止められない凡人が正しく、天才のほうが人間として間違っているのである。この人間の本性こそが、ときに恐ろしい結果を招いてしまう事にもなるのだが。」

 

 

 最高裁で死刑が確定していながら、2014年に被告が釈放された「袴田事件」について、ニュースなどで多く取り上げられたので、記憶にある方も多いかと思います。冤罪である事が濃厚である、袴田巌元被告は、いわれの無い罪のために45年もの間、東京拘置所に収監されていました。

 

 「幸浦事件」、「二俣事件」、「小島事件」、「島田事件」、「丸正事件」、「袴田事件」と、静岡県では数々の冤罪事件が起こっています。これらの事件には、紅林麻雄という刑事が関係しており、そして、これらすべての事の発端に「浜松事件」があることを著者は指摘します。

 

 この本は、冤罪事件を中心に取り上げながらも、冤罪事件を引き起こし、「拷問王」といわれるようになる紅林麻雄一人を断罪する訳では無く、そもそも我々はなぜこのような過ちを犯してしまうのかを追求していきます。冒頭で引用した恐ろしい言葉が示すように、ここで過ちを犯すのは、いわゆる「悪人」では無く、一般の「道徳的」な人々なのです。

 

 それぞれの冤罪事件について以外にも、冤罪事件と闘った人物の悲しい人生、ようやく無罪を認められた被告へのあんまりな仕打ち、「道徳的」なチスイコウモリの話、無実でありながら自白してしまう人の心理、等々、興味深い話が多く載せられています。500ページほどに渡る分厚い本にしては、意外に読みやすいと思いますし、是非一度手に取ってみて欲しいと思います。

 

 

「わたしが・棄てた・女」  遠藤周作 著

 

 遠藤周作の作品は、「海と毒薬」のようなシリアスで、重苦しい雰囲気のものから、軽妙なエッセイまで、幅広いものがあります。その中で、この小説は、軽い文体で書かれた読みやすいものですが、内容は重くて、深い悲しみを感じさせるものになっています。

 

 戦後間もない頃を舞台に、貧しい大学生である主人公「吉岡努」は、「女の子がほしいなら、どんな女の子でもいいじゃないか」と思い、「森田ミツ」と付き合い始める。好きでも無く、魅力も感じない相手を冷たくあしらう主人公と、純粋に喜び、渾身的に接する彼女。やがて主人公は彼女を「犬ころのように棄てて」しまいますが、心の中で彼女の存在が、大きく、忘れられない存在へとなっていく。

「理想の女というものが現代にあるとは誰も信じないが、ぼくは今あの女を聖女だと思っている・・・。」

 

 

 

 子供の頃ドリフのコントで、入院して落ち込んでいる友人に、もっと酷い目に遭っている患者を見せることで励ます。と言うのを見た覚えがあります。子供の時、そんな事で元気になったりするかなあ、と思いましたが、確かに、不幸な登場人物が登場する小説を読むと、却って気持ちが楽になる時があります。嫌な話だと思われますでしょうか。

 特に学生の時などは、嫌なことがあると、まるで世界一不幸な人間になったような、どん底の気分になることがありました。今から考えると、多分、下らない事なんでしょう。小説は、自分の悩みや考え方が、この世の中でちっぽけなものであると気付かせてくれました。

 そんな学生時代に読んだこの小説は、自分の中で、特に思い出に残った小説の一つです。今、もう一度、読み返してみていますが、あの時のように、登場人物の「森田ミツ」に激しく共感する事は無いだろうと思います。もしかしたら、読み返したりせずに、思い出の中で、大切にしまっておいた方が良いのかもしれません・・・。

 

「人類と気候の10万年史」 中川毅 著

 

 地球温暖化などと言いますが、この本を読むと、地球の気候変動の激しさに驚きます。約6億5000万年前には、「全球凍結」と言って、地球全体が凍り付いた時期もあったとか。そうなるとつい、人間の手による地球温暖化なんて大したこと無いし、余り気にすることも無いのではないか。と考えてしまうのですが・・・。ただし、著者はそういった考えを否定しています。

 

 

 過去500万年の気候変動を見てみると、300万年ほど前から、地球は寒冷化しており、また、気候の振れ幅が増大している。氷河時代(氷河期)が到来したのである。

 この氷河時代は、「氷期」と、「間氷期」と言う、二つの時期に分かれる。「氷期」は寒く、気温変化が厳しい。「間氷期」は、温暖で気温の安定した時期である。そして、この二つの時期は、約十万年の「氷期」と「氷期」の狭間に、約一万年の「間氷期」が訪れるというパターンを何度も繰り返している。現代は氷河時代の中の「間氷期」という、人類にとって(おそらくその他の動植物にとっても)過ごしやすく、例外的な時期に当たるのである。

 

 

 人類の発展に農耕は欠かせませんが、人間が農耕を(継続して)行い、発展していくことができたのも、「間氷期」に入った事によるものだそうです。確かに寒いだけならまだしも、気温が激しく変動したら、今年は何の種を植えたら作物が無事育つのか、予想がつきません。

 

 現代の温暖で安定した「間氷期」がいつまで続くのかというと、時期的にはいつ終わってもおかしくないようです。この後10万年もの間続く「氷期」を想像するとゾッとします。食料を確保し続けることは可能なのでしょうか。少なくとも、現在の快適な暮らしを続けるのは絶望的なのではないか。まさに未来はディストピアです。

 

 私は以前、「氷期」が訪れる兆候はまだ見られないので、あと1000年からおそらく2000年以上は現代の気候が続くだろう、と専門家が言うのを聞いたことがあります。                   

2000年など地球からすれば一瞬の時間。4~5℃の平均気温の変化など、地球からすれば誤差の範囲内なのでしょう。しかしそれは、人間にすれば長い時間であり、無視できない気温変化です。

 私達はこの例外的で、幸福な、残り2000年間を大切にして行かなければならない。そのように感じました。

 

 

「自由をいかに守るか ハイエクを読み直す」 渡部昇一 著

 

 オーストリアの経済学者で、“マネタリズムの父”とも呼ばれるハイエクが書いた本、「隷従への道」を、分かりやすくまとめた本です。

 

 世の中、「右翼」とか「左翼」とか言いますが、ハイエクは右か左では無く「自由主義」か「計画経済」かで分けて考えます。そして、極端で過激な右翼、左翼に当たる、「極右」と「極左」は、一見すると、両極端の最も遠いところにあるように見えて、実のところ、言っていることや、やっていることは非常に似通っている。と言う指摘は、大変興味深くあります。つまり、例えば極右のナチスや、極左であるソ連の中身は同じようなものだと言うわけです。

 私はこの指摘を、丸い地球の上で、右に行っても左に行っても同じ「反対側」にたどり着く。と言うイメージで捉えました。

 この「自由主義」か「計画経済」か、という分け方は、世の中を理解する上で大きな助けになるように思います。特に、戦前の日本や、世界情勢を見る時に、必要不可欠な考え方でしょう。戦前の日本の右翼なんか、よく見ると、右なのか左なのか分からなくなってきますし。